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人の笑顔を繋ぐ企画の力-四万十から世界を見つめる製麺所の挑戦【前編】

~ HarFor Breaking Interview#05 毛利製麺株式会社 代表取締役 毛利仁人さん~  

HarForがオフィスを構える高知で、解決できる課題、実現できる未来は一体なんなのか。高知を一緒に盛り上げていく素敵な方々からお話を伺うインタビューシリーズ、「HarFor Breaking  Interview」。HarForが大切にする「つながり」をテーマに、ゲストのご縁を繋げていくリレー企画です。 

 前回のゲスト、宿毛コンシェルジュの谷口麻耶さん繋いでくれた第五回目のゲストは、四万十市でうどんの製麺所を引き継ぎ、国内外に向けて事業を拡大する毛利製麺株式会社・代表取締役の毛利仁人(もうりよしと)さんです!よろしくお願いいたします。 

(毛利さん)ーよろしくお願いします! 

 

~プロフィール~
四万十市(旧西土佐村)出身。
高校卒業後上京し、会社員を経て1998年、24歳で独立。
「株式会社カツマジャパン」を立ち上げ、アロエを使った商品の営業業務に従事する。
その後2000年、26歳の時に地元のうどん製麺業を受け継ぎ、
業務用冷凍うどんの製造販売を始める。 

 

(インタビュアー)まずはご経歴を教えてください。 

(毛利さん)1974年、現四万十市である旧西土佐村で生まれました。高校まで地元で育ち、高校卒業後は東京にある音楽系の専門学校に進学しました。ギターをずっとやっていて。 

(インタビュアー)へ〜!音楽の道へ!

(毛利さん)ただ講師の先生の都合で休講になることが多く、空いている時間にアルバイトを結構入れていたのですが、結局そっちの方にシフトするようになってしまって。入って一年ほどで退学しました。その後、両親が納得できるような仕事をしようと、東京の大学病院で看護助手のアルバイトを始めました。

そのおよそ1年後、地元で当時役場の職員をしていた父から、地元の地域おこしの 一環としてアロエのハウス栽培を始めるという話がありました。米や柚子などの作物と違い、通年同じくらいの仕事量を維持でき、農家の転作などにもぴったりのアロエですが、作った後に加工が必要です。その加工場も新たに作る必要がありますが、高知にはその知見がある人間がいないため、代表して群馬県にあるアロエ加工の会社に研修に行ってほしいという話でした。そのままその会社に就職することになり、営業の仕事に就いて12年ほど関東で働きました。そして、いよいよ高知で加工場が稼働を開始するということで高知に戻り、高知市内にある営業所で働いていたのですが、その後、2年で会社の業績が悪くなって高知営業所はたたむことになり、西土佐村にあるアロエ加工工場の現場の仕事に異動になりました。ですが1箇所で同じ仕事をすることが耐えられず数カ月で辞め、24歳の時に独立をします。高知営業所をたたむときに取引先が何件か残っていたので、それらの取引先との営業サポートをする事業を立ち上げました。 

 


▲さまざまな業種を経験した後、24歳で独立を決意した毛利さん 

 

(インタビュアー)24歳で!!お若いのに、大きな決断ですね。 

(毛利さん)自分が決断したというよりは、外部的環境要因があって自然とそうなったという感じでしょうか。元々、25歳くらいになったら自分で何か始めてみたいとは思っていました。別に何かしたいことや大きなビジョンがあった訳ではないですが、人にあれこれ言われて色々やらされるのは嫌だな、自分の好きなようにやりたいなと(笑)
ちなみに、個人事業としての設立記念日は410日にしているんですよ。

(インタビュアー)おお~!「四万十の日」ですね!

(毛利さん)屋号は「カツマジャパン」という名前にしました。「カツマ」というのは、故郷の方での自分の家が持つ屋号なんです。「ジャパン」というのは海外に行きたいなという思いから、「日本」という名前がついていた方が分かりやすいだろうと付けました。経営を勉強していたとか知識があった訳ではありませんでしたが、当時窪川の農業大学を卒業したばかりの弟と一緒に始めました。そして2000年の26歳の時、地元の製麺所を経営していた方が辞めるという話があって、自分たちがその事業を継承することになりました。そこのうどんはギフトなどとして、元々おいしいと評判だったのですが、辞めるという話をよくよく聞いていると「自分にもできるんじゃないか?」と、若気の至りではないですが思ってしまって。それが今の始まりです。 

(インタビュアー)うどんの作り方などの知識は? 

(毛利さん)もちろん0です!修行もしていないし、前任の方の引継ぎなどもありませんでした。前の方が辞めたと同時にいきなり自分たちが入った形で、そこにいたアルバイトの方しかうどんの作り方を知らない状況でした。あとは取引先の情報が少し残されているだけでしたね。 

 


▲うどんの世界に一歩踏み出した毛利さん。
知識0から挑戦し、故郷への思いが詰まった決断です。 

 

(インタビュアー)本当にいきなり始まったんですね。 

(毛利さん)そうですね。今までの営業という仕事とは違い、今度は工場があって従業員がいる、 固定費があって人の生活にも直接的な責任を持たなければならない仕事にいきなり変わったの で、最初はあった自信もすぐになくなりました。毎月どんどんお金が消えていき、用意していた運転資金も最初の数か月くらいでほぼなくなってしまいました。原因は値段の付け方です。うどんを一つ作ると50円赤字になっていたんです。今までの経営者は製麺所とは別にお店が経営されていたこともあって明るみには出ていませんでしたが、実は製麵所単体で見ると非常に赤字経営だったことが分かりました。なのでまずは値段を上げる必要がありましたが、そこが一番大変でしたね。値上げすると「じゃあいらない」というお客さんがどうしても出てきてしまいます。

さらに、機械などの修理費用が結構高いのですが、そこにもビビって大変でした(笑)これまで自分が取り扱ってきた桁と単位が違う、何十万、何百万のお金を一気に動かすのは、やっぱり普通の生活感覚だと「うっ」となりますよね。最初は出費に対して非常にシビアでした。 

(インタビュアー)でもそこを乗り越えていったんですね。 

(毛利さん)経験を積み重ね、周りの人にも支えてもらいながら、何とか事業を続けてこれました。1番幸運だったのは、ちょうどその頃(2000年頃)に「讃岐うどんブーム」が起こったことです。それまで関東の方ではうどんはあまり食べられていませんでしたが、このブームをきっかけにうどんを食べる文化が広まってくれました。

また、インターネットの普及も大きかったですね。初めは前任者がやってきたロールモデルをそのまま引き継いだ形だったのですが、販路の定着が上手くいかず、なるべく自分たちで直接売り込む必要がありました。そこで目を付けたのが、インターネット上にHPを作るという方法です。インターネットを使って商売をする人を育てていこうという県のプロジェクト「e商人養成塾」に参加し、オンライン販売の方法を学びました。そこから、今のHPを活用して販売する方法が始まったんです。 

 


▲組織から個人事業主へ。全く異なる世界で悩みながらも、
讃岐うどんブームとSNSの普及により回復方向へ。 

 

(インタビュアー)実際にHPを活用してみた結果はどうですか? 

(毛利さん) 本当に助かっています。実はうちは今、営業をしていないんですね。ほとんどHPからの集客だけになっています。ひとつここでポイントだと思っているのは、自分たちが今までやってきて一番の強みは何かを探ることです。ここなら他と比べて勝てるというところや、他の人がまだやってない部分を見つけて取り組む。例えば、うちの強みは少ない量でオリジナルの冷凍うどんが作れるところです。冷凍うどんは大手のうどんメーカーが生産していることが多いのですが、小ロット生産は行っていません。逆にオリジナルの麺を作る会社は比較的小規模なところが多いのですが、冷凍する設備がないことが多くて。だから冷凍設備がある上に小回りが利き、さらにうちは飲食店を自社で経営をしているのでそのノウハウも提供することができる。そういった強みを明らかにしてHPでもしっかり発信しています。すると、営業をしなくても本当に仕事がくるんです。 

(インタビュアー) 提供先は日本に限らないんですよね。 

(毛利さん) そうですね。「e商人養成塾」への参加を通じて県からも声をかけていただき、2004、5年ごろから、海外の催事へも参加し始めました。高知県が県の食品を輸出しようとする動きもあり、台湾はじめ、シンガポールやアメリカなど海外からの発注も増えていっています。
自分たちは就職氷河期の世代で、経済が伸びていかない状況の中でこれまで生きてきました。 コンビニのジュースは当時一律110円でずっと値段が同じでしたが、台湾や香港の友達に「日本のジュースはずっと同じ値段だね」と言われ、他の国ではそうではないんだと知りました。初めての海外である台湾での催事への参加で、コーラが50円から徐々に値上がりしているのを見て、経済の成長を初めて実感しましたね。他にも、台中(タイジョン)という街に行くために新幹線で移動したのですが、途中までは田園地帯が広がっていたのに、台中に着いた途端に大きなビルが 立ち並ぶ都市になる、急速な都市化が進んでいる光景に、「これが経済成長なんだな」と。それがきっかけで、海外で自分のうどんを提供したいと思うようになりました。 

他にも、催事への出展などと並行でECでの出品も進めたのですが、当時は食品に関して今以上に楽天市場が強く、圧倒されました。自分たちも楽天市場に1年ほど出店していましたが、明らかに他社商品との価格差が不利でしたね。労力に見合ったリターンはありませんでした。 

 


台湾の催事に出店したときの様子。 

 

(インタビュアー)そこからまた違う方向へ舵をきったんでしょうか? 

(毛利さん)はい。そこから次は、実店舗を出してみようということになり、高知市内に店を構えましたが、一定の成果は出たものの思った程にはならず、一年くらいでお店は他の方にお譲りしました。チャレンジとしては良かったかもしれませんが、成果に結び付くところまでには至りませんでしたね。 

なのでそこから、個人のお客様向けにBtoCという形ではなく、元々冷凍うどんの製造をしているので飲食店さん向けの方がいいんじゃないかと、BtoBの形に少しずつシフトしていきました。

(インタビュアー)今の形になっていったわけですね。 

(毛利さん)そうです。2014年に西土佐村から今の住所の四万十市佐岡という場所に移転し、そこで今度は地域の方により使ってもらえるお店にしたいという思いから、セルフのうどん店で比較的価格帯もお求めやすい感じにしました。場所的に見るとだいぶ辺鄙なところにありますが、飲食店の立ち位置として、地元の方はもちろん、ツーリングやドライブなどの一つの目的になるような経営モデルにしていきたいと思っています。 

 


▲四万十市佐岡に店を構える「麦屋」の冷凍うどん。

 

前編では、毛利さんが今の仕事の在り方に辿り着くまでの道のりや、試行錯誤する中で気づいたことなどについて詳しくお聞きしました。インターネットの活用など、色々な挑戦と学びが、今の活躍を生み出していたんですね。
次回の後編では、そんな毛利さんが普段から大切にされている考え方や思い、そしてこれからの目標などについてお話しいただきます。 

 

取材の様子は番外編としても、HarForの公式Xで順次公開!
そちらもぜひチェックしてみてくださいね。
それでは、後編もお楽しみに! 

 

 

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(インタビュー・写真:HarFor広報担当)